おわりに――地学が私たちに問いかけるもの

前項までで、高等学校の地学基礎において取り扱われるすべての分野について、ひととおりの解説を行ってきました。

本サイトでは、主に地学にはじめて触れる方に向けてその内容の解説してきましたので、踏み込みの足りない部分も多々あります。

もし、各項目の説明の中で興味をもたれた分野がありましたら、インターネットや教科書等を活用しながらみなさんの地学に対する学びをより深めていって頂ければ幸いです。

今回は、私が地学を教える中で考えてきたことや実感してきたことについて述べながら、地学を学ぶことについての区切りのひとつにしたいと思います。

「私たちは星屑からできている」

これまで解説してきたように、地学で扱う分野や対象などは本当にいろいろあるのですが、多くの人にとってはこれらの地学の内容を理解することが何の役に立つのかが直截的には分かりにくい部分があります。

そのため、本サイトで地学における各項目を解説するときには、単に教科書の内容をそのままなぞったり事項の説明に終始したりするのではなく、私自身が地学を教える際に心がけてきた「これが分かると、何が分かる/見えるようになるのか?」という部分を意識した構成としています。

また、地学という科目は、観測された出来事やその事実から「何を読み取るのか」がそれを見る人の側にゆだねられている部分がひとつの大きな特徴だといえます。

この「何を読み取るのか」という部分は、その人の意識のアンテナや問題意識のあり方に大きく依存しているところがあります。

たとえば、地学では宇宙の分野がその終盤の内容となっており、私自身はこの宇宙分野の学習を終えた後に行う最後の授業において、アメリカの天文学者カール・セーガンの「私たちは星屑からできている」という発言を引用し、生徒とともにこの言葉の意味を考えます。

みなさんであれば、この言葉をどのように受け止められるでしょうか。

おそらく、宇宙の分野や恒星の進化に関する知識がない状況では、この言葉が何を意味しているのかはよく分からないのではないかと思います。

恒星の項目において確認したように、恒星の内部ではその誕生の瞬間から水素原子を用いてより重い原子を生み出す核融合反応が絶えず行われています。

太陽の10倍程度の大きさの恒星がその生涯を閉じるときには、中心部の核融合反応は鉄の原子を合成する段階で止まり、それ以上の質量をもつ原子が恒星内部において合成されることはないといわれています。

しかし、みなさんもご存じのとおり、私たちの身の回りには金やウランのように鉄よりも質量の大きな原子が数多く存在しています。

では、これらの原子がどこから来たのかというと、恒星の超新星爆発という通常の核融合反応の状況をはるかに超える超高温と超高圧のイベントを経て合成されたと考えられるのです。

私たちの世界に鉄よりも重たい原子がいくつも存在しているということは、かつてこの宇宙のどこかで恒星の超新星爆発が何度か発生しており、そこで散らばったさまざまな原子のチリ、すなわち「星屑」が星間ガスとして集まって太陽と太陽系が形成され、そこから地球ができて私たちを含む生命体が誕生したということを意味しているのです。

ここに至って、みなさんにもセーガンの言葉が何を意味しているのかがご理解頂けるのではないかと思います。

すなわち、「私たちは等しく宇宙的存在なのだ」ということです。

この「私たち」は人間を含めた生命だけでなく、身の回りにある空気や水、海や大地など、ありとあらゆるものの存在を指し示しています。

このように、地学を学ぶということはまさに自分たちの存在がどこから来たのかを知ることとほとんど同じことなのではないかと私は感じています。

私自身、地学を学ぶ上でそのようなことに気づかされ、それを生徒たちに考え感じてもらうためにセーガンの言葉を手がかりとしてそのような問いかけをしています。

「E=mc2」という言葉の意味

もうひとつ、私たちの存在のあり方を考えるときの手がかりとなる言葉を紹介しましょう。

みなさんも、アルベルト・アインシュタインの有名な「E=mc2」という相対性理論の公式についてはどこかで見聞きしたことがあるかと思います。

この公式において「E」はエネルギー、「m」は質量、「c」は光速度をあらわしています。

こちらの「太陽の活動と恒星の一生――宇宙を測るものさし」のページで取り上げた恒星の核融合反応の項目でも説明したように、恒星の中心部では4つの水素原子から1つのヘリウム原子が核融合反応によって合成されます。

その際、4つの水素原子の質量と核融合反応後の1つのヘリウム原子の質量を比較すると、後者のヘリウム原子の質量の方がほんの少しだけ軽くなっています。

この消失した質量はどうなったのかというと、それはエネルギーに変換されており、その質量からエネルギーが生み出されるプロセスはアインシュタインのこの公式を満たす形で行われているのです。

さて、このアインシュタインの公式を核融合反応についての説明として適用するとそれだけの話で終わってしまうのですが、この公式の真の意味はそれだけの部分にとどまりません。

この公式ではエネルギー(E)と質量(m)がイコールで結ばれており、質量が消失すればエネルギーが生み出され、逆にエネルギーが失われると質量が生まれるという、エネルギーと質量とが本質的に表裏一体で同じものであることが示されているのです。

アインシュタイン以前、宇宙において原子をはじめとする物体の「質量」、すなわち「存在」というものがどこから来たのかについては長らく謎のままだったのですが、アインシュタインがこの公式を提示し、さらに2000年代に入ってそれが実験を経て証明されたことによって、私たちの存在はエネルギーを端緒としてそれがある条件の下で変化したものであることが示されたわけです。

私たち人間を含め、生命体とはいずれ死を迎えてしまう存在であり、それは誰もが逃れ得ない宿命です。

しかし、アインシュタインが明らかにしたように、「エネルギー」というものと「質量=存在」というものが対置・交換可能であるならば、たとえ私たちの存在が死を迎えてなくなってしまったとしても、やがて宇宙の原子として分解されたり質量をともなう存在からエネルギーという形に姿を変えたりしながら宇宙をめぐり、いずれはどこかにたどり着いてまた新たな姿と形を与えられ、そこで再び違った生命として生きることになる可能性も拓かれているといえるのです。

アインシュタインのこの公式は、私たちの存在というものの源泉とそのあり方を暗に示しているといえるでしょう。

あなたにとって地学を学ぶこととは?

私の幼少の頃の話ですが、かつて私は「水になれれば良いな」と考えていた時期がありました。

水は雲という形で空の上に浮かぶことができます。

水は雲から雨となって地上に降り注ぎ、水は川の流れとなって大地をめぐり、その水はやがて海に流れ込みます。

海に流れ込んだ水は海流となって世界中を旅し、やがて太陽の光を浴びて水蒸気となって空中を漂い、そこから雲に変わると再び空へと上っていきます。

つまり、水は形をさまざまに変えて地球上を循環し続ける存在なのです。

このことを知ったとき、「水はなんて自由な存在なんだろう」という風に感じたことをよく覚えています。

しかし、私が地学を通して地球の姿や宇宙の構造を学ぶにつれて、そのような思いは消えていきました。

結局、宇宙的規模の観点から眺めてみれば、人間も水もどちらも等しく循環する存在だったのです。

フランスの有名な画家ポール・ゴーギャンの生涯最後の作品には、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という言葉が銘打たれています。

ここにはまさしく私自身が地学を学ぶ中で感じ取ってきた問題意識があらわされており、私が地学の教員として生徒の前に立って教えるときには、以上のようないくつかの問いかけの言葉を生徒たちに投げかけながら、私たち人間という存在の「来し方」と「行く末」をともに考えてきました。

もちろん、地学に何を見出すのかについてはそれを学ぶ人によってさまざまな違いがあると思います。

さて、みなさんが地学を学ぶときには、そこからどのような問いかけの言葉が聞こえてくるのでしょうか。

ぜひ、地学を学ぶことを通して、あなたにとっての疑問や問いかけの言葉を見つけてみてください。